昭和47年4月6日 朝の御理解
中村良一
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
御道の、おー、信心、教祖金光大神が、あー、教えられた、あー、または、えー、開けてまいりました御道の信心ほど、あー、道理に合うた信心は無いと思うですね。昨夜、壮年会でございましたが、あー、西岡さんが、みんなあの、私が検定試験を受けました時の、おー、答案の、随分あるんですよ。沢山な科目がありますから。それに、全部、私が一生懸命に勉強させていただいて、一生懸命とは勉強しとらんけど、勉強させてもらって、それに対しての答えを書いて残しているんですよ。ですからあの、まあ、んー、今度試験に行きますのに、一通り、まあ、このぐらいな事は、あの、まあ、常識として知っとかなければならない事だから、一遍、読んどきなさいと言うてから、幹三郎と西岡さんに、それを持たして本部にやりました。それで、それをまあ、一生懸命読んでおるというわけですが、まあ、あれを見せて頂きますと、親先生は随分勉強しとんなさいますですね。もう、宗教全般にわたってでも、これほど、まあ言うならば、あーその、勉強しておられるというわけなんですけども。実は、勉強しているわけじゃないけれど、何とはなしに、やはり、いー、信心が好きですから、まあ、手当たり次第ではありますけれども、宗教関係の本は、まあ、青年時代から読むのが好きでしたからね。だから、あの、深くは分かりませんけれども、その、浅く広くなら分かって、知ってるわけなんです。大体、何々氏はどんなことを言うんだ、何々教は、どんなことがというような事をね。ですから、そのまあ、言えるんですけれども、どんなに考えましても、その、金光教の信心ぐらい、道理に合うた信心は無いということ。なかなか素晴らしい教え、素晴らしい宗教、または、偉大な宗教。色々ありますけれども、どこにかね、合点のいかん事がある。道理に合わないところがある。けれども、金光様のご信心を段々させていただけば頂くほど、その道理にあっているということですよね。まして、最近、合楽で言われておる、おー、事のと言うのは、もう、実に普遍性に富んだ、あー、言うなら教えであり、信心であるということ。ね。天地の道理をもってして説くならば、あー、まあ、誰でも納得がいくだろうと、世界の、おー、ま、宗教だけではなくて、えー、まあ、全人類にです、ね。布教して行けれる内容を持っているということ。ところが、ほんなら御道の信心の、なら、その金光様のご信心が、道理に合うた信心だからと言うて、その道理に合うた事だけで、助かっておる、ゴヒレイを受けておるという人、または教会、いー、ばかりではないということです。金光様のご信心しておって。
昨日、久しぶりで、あの、山口の中田先生が見えられましてから、その、話して帰られましたが、んー、なかなかゴヒレイの立っておるある教会の話をしておられましたが、んー、「一万円づつ以上のお供えをなさる方は、ここへ持ってきて下さい。」「一万円以下の人は、お賽銭箱に入れて下さい」という教会があるそうです。それでも、えらいおかげいただいとるち言う。だから先生、もう、「お供えという事は、おかげにも、大変な密接な関係がありますね」ち言うてその、昨日、話されるんですよ。はっは、「一万円以上は、ここへ持ってきてください。」「一万円以下は、どうぞお賽銭箱の中に入れてください。」ね。けども、よくよく考えさせてもらいよるとです。なるほど、それは、おかげに繋がる何物かが、やはりあるんですね。かというと、今度はまた、もう、祈念力においてならば、というように、それこそ神様を、まるきりごうぐるようにして、もう、願って、願って、願い抜いて、もう、御祈念を一生懸命される教会がある。もう、先生は、何時も喉をからしてござる。もう、大祓いで、もう何時も、大祓いをあんまり上げられるもんですから、喉は何時もかれてしもうてる。それこそ、血の出るような勢いで、神様へ向かって御祈念をされる。その御祈念が非常に的確である。いわゆる、御祈念力で助かる。いや、これは金光様のご信心の中ですよ。かというと、最近一番多いのは、御用すりゃ助かるということです。ね。もう、この一本槍のようにして、いわば、布教しておられる境界もあるんです。御用すりゃ助かる。ああ、一生懸命御用しよりゃ、いつの間にかおかげを頂くと。決してこれも、嘘じゃないのです。まあだ、色々ありますよね、この頃から。もうその教会では、ほとんど、まあ、病人が多い。そして、おかげを受けたのも、やっぱ、その、ない命を助けていただいたといったような病人が多いが、そこの先生が、いわゆる、お擦りをなさる。悪いところに手を当てて、こうやって、ね。それでもう、大変なゴヒレイを頂いておるという教会もある。そら、金光様のご信心の中でそうなのである。ね。ですから、そういうような助かり方を、という事は、助かるという事においては、そうですけれどもです。ね。ちょっと可笑しい。おかしいというて、それをその、よく、良く分からせてもらうとですたい。なるほど、念力一。一生懸命祈る、念力によってですね、やはりその、生きた木を枯らすような事すらが出来ると言われるくらいですから、また、枯れかかってる木を、生かすことも出来るような念力の力というもの、念力というものは、まあ、大した事でもある。だから、その、どの人とでもです、信心の中に、その、あって悪い事はないけれども、そういうようないき方が、そこの教会の、まあ、看板であるとするならです。金光様も大したことはないじゃないかと言われても仕方がないわけである。どんなにゴヒレイを頂いても、ね。かというとまた、御霊様のことばっかり言う。
昨日も、おー、おー、熊本に行ったと言うて話しておられました。帰りに寄られたのですけれども、ここで修行しよりましたひろ子さん。もう、御霊様のことばっかり言う。何代前の御霊が助かっとらんけんこうなっとるる。ね。それであの、霊友会じゃないですけれども、先祖の供養さえすりゃ助かるという、ただ、いき方。そういう例えば、いき方とか、教えとかで、もし助かっておる事実がありますけれどもです。それだったら、人間は、万物の霊長だから、万物を見て道理に合う信心にはならんのですよ。ね。もう、これは、金光教の、いうならば、えー、お題目と思われる、天地書付ですね。「生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」もう、この一本で、おかげを受けていくという、いき方である。その、和賀心を頂く事のために、教祖の教えられた教えの全てがあるんだという頂き方が、今の合楽のいき方ですよね。ね。そら、天地書付だから、金光教の教会である限り、金光様の信心しておる限り、天地書付を、朝晩、奉唱しておることは事実です。けれども、それに絞らずに、なら、拝んだり、拝む、ね。まあ、色々例を申しましたように、お供えをすりゃ助かるとか。御霊様の供養をすりゃ助かるとか。いや、そこの先生が、痛いところに、こう触ってやらっしゃると、その痛いとが治るといったようなことで、氏子がヒレイを頂いておったり、助かっておったりしておるならば、私は、今日の、ね。教祖が、せっかく仰っておられる、教祖金光大神が仰っておられる、いわゆる、天地書付ですね。その、天地書付の内容というか、いわゆるその、和賀心を頂かせていただく、分からせていただくために、その教えの全てがあると、言われておる、それとは、大変縁が遠いものになる。
夕べの、壮年会の、んー、なかで、えー、久留米の石井さんがこんなことを言っておる。信心は、いわゆる、見やすい物だと、信心は、親に孝行するも同じ事と仰るから、こげん見やすいことはなかち。ね。親に孝行する心があればです。信心は出来る。そりばってん清さん、あんただから、それで言いけれども、他のもんじゃ、そげんじゃなかち。あーたは、なかなか親孝行で、ね。親を喜ばせるということが、どういうものか。また親がその、けれどもそんなに、親孝行のものばっかりおらんから、ね。なかなか、信心は、確かにそこまで、ね。本当に、親に、親孝行な人が、御道の信心を頂いて、ね。天地が、そのまま、私共の親だとして、分かったときにです。信心ちゃ見やすい。本当に、清さんが言う通りだろうと思いますね。天地金乃神様が、親神様だと、本当に分からせて頂いたら、しかも、その人が大変親孝行な人であったら、その親孝行のこと、親を喜ばせるこつあいというものを体得しておったら、金光様のご信心は、実に見やすいもの。ね。もう、親に孝行しゅうごつしてたまらんというような心。ね。何時も、親のことばかりを頭においておる、心においておると。そのいき方を、天地の親神様に向ければよいのであるから、信心は見やすいんだと。なるほど、そういう言い方もある。確かに信心は見やすいものじゃあると。氏子から難しゅうすると仰るのは、根本的なところが間違っておる。ほんとにまあ、うがった話だとこう思うのですね。だから、本当に、親孝行をしたいとか、親に喜んでもらいたいとか、安心してもらいたいという、そういう心が、そのまま、和賀心に繋がるわけでもありましょう。ね。まあ、色々、夕べもお話をさしていただいた中に、まあ、一生懸命、まあ、私、お話さしていただいたんですけれども、んー、最近、私が言うておる、うー、事のなかに、いわゆる、うー、まあ、合楽で今、一番最高の信心というたら、ね。もう、全てが、黙って祈られるということ。それでいて、言うことよりも、語ることよりも、素晴らしいおかげを現しておるという事。これが今の合楽では、一番最高の信心だと。強引に分からせる。どうでも分かってもらわにゃならんと思って強引に分からせる。というのは、いうなら、三角で分からせたようなもの。なるほど、家の親父が言うことは本当なこと。ね。こういうもんだぞと言うて、いうなら、四角四面な自分の、正直なら正直といういき方をです、子供なら子供に、言うて聞かせて分からせるというのは、それは、四角いいき方。ね。
昨日、一昨日の神愛会に、私が不在でございましたから、あー、若先生が司会をして、えー、おかげを頂いておる。先日から、熊本の、おー、富永先生も、こうして、えー、神愛会に出てくると、まあ、ここで、先生と言われておる人達が集まって、共励をしよるから、出ておいでませんかと私が言うておったものですから、その日に出てきてある。ところがその、おー、その後で、えー、まあ、感心しておられること。どこも、大きな教会があるけれども、二代になると、三代になると段々、まあ落ちてくる。けども、ここの若先生だけには感心したと。まあ、そして、どうしてあれだけ、お父さんの信心を把握しておられるだろうかと。しかも、どうしてあれだけ勉強しておられるだろうかと。これは、その日、ここでそんなら、西岡さんやら、上野先生達も一緒に参加して、久富先生あたりも、もう、本当に、あの、若先生の、いわゆるその、勉強しておられることにもう、驚いたと言うております。もう素晴らしいその、司会振りであったと、こういうわけなんです。もう、親先生がおられたように、みんながおかげ頂いたというわけです。ね。これは、えー、上野先生でしたか、言いよりなさるのは。あ、あれ、誰だったですか。若奥さんが、言いよりなさいましたが、もう、夜も夜中もないごと、パーッと起きてから、何か思い出したら、勉強、あの、本出してから、一生懸命、あの勉強されますち言う。私は、初めて聞きました。まあ、いうなら、えー、どういうことかと、まあ私の目から見る若先生ですけれども、いうなら、まちっとあそこもあげんありゃ良いのに、こうありゃ良いのにと思うことばっかり。いうなら、目に余ることばっかり。けれども私は一言も言わんです。けども、そうして聞かせて頂いてですたい。ほんなこて、言うことは要らんなあと思うです。こりゃ、ほんなら、勝彦だけのことじゃありません。ほんなら、この頃の、おー、歓学祭なんかでも、もうこれは、あー、光昭が、もうそれこそ、一人であの、あれだけのことを企画したり、あれだけ、十人余りのあれで、もう、本当に、あれだけのことが出来るとは、大変な手腕だと、私は思いました。こらまあ、みんなが一様に感心したことだと思うんです。二日間に渡ってからの、あの、行事のことでも、その、なんていうですか、もう、水の流れるようなスムーズさですもんね。様々な行事が沢山あるのに。他の兄弟、いわゆる、幹三郎が、あー、あの、おー、サブリーダーとしての、おー、まあ、あれはしとります。他に、まあ、十人余りの人達で、一生懸命やってもろうて、その中心になっとるのは光昭なんですね。やはり。本当、ああせんならん、こうせんならんということも、なーんも要らん。何時の間に、ああいうことを覚えて、ああいうことが出来るかと、これは、私共の、言うなら、子供達の上に、それが言えるです。ね。教会の子供、息子はこげんでなかにゃならん。娘はこげんでなかにゃならんと。私が、言うならば、お説教がましいことを言うて、果たして、どういう事になるか。それは、三角にも出来るし、四角にでも、それは合点させるかも知れません。けれども、それは、押さえつけて言うたようなものであったり、信心とはこんなもんだと、四角四面ないき方をして、分からせても、それを、本人たちが行ずるという事になると問題です。行じ切るかどうか分かりません。改まって、なるほど、目に余るようなところがあるなら、もう、祈っていく以外にはない。私が、改まってすがっていく以外にはない。
今、合楽で一番最高の信心は、もう、黙って治めるということ。いよいよ、私自身がです。その時点において、その成り行きを、いよいよ、大事に尊ばせて頂いて、ね。いよいよ、その事を、御事柄として頂かせて貰うて、ね。いよいよ、和賀心時代の、を、作ると神様が仰せられ、その和賀心時代に、いー、参画させていただく、いわゆる、基盤は、そのようにして出来て行くものだと、ね。それで、今、合楽におかげを頂いておる、いうならば、人達は、神様の、そういう意味での、いうなら、選りすぐられた人達なのだ。ね。ですから、今、合楽にご縁を頂いておる人達がです。ね。言わんですむほどしの和賀心。言わんですむほどしの信心辛抱。そして、答えにおいては、もうそれこそ、なんとも言えん、まーるい丸いおかげになってくるような、おかげを頂いてもらわなければならないと。こういう素晴らしいことをです。私は、今、合楽では言うておるが、これが、遅々として進まない。ほんなら、おんなじ金光教の信心の中にあってもです。今も申しますように、御道の信心は、道理に合うた信心でなからなければ、天地の道理に合うた信心でなからなならんのに、どんなに考えても、道理に合うたとは思われないというようないき方をしておるならば、それは、教祖が仰る道理に、金光教の中にも、道理に合わん信心をしておるということ。ね。ましてや、これが、他の、宗派、宗教である場合は、いよいよ、教えそのものの中にです。ね。人間、万物の霊長であるのには、相応しからない、教えを持っておるということ。ね。だから、どうしたならば、今、私が言っておる、これよりも、いうならば間違いのない事を、どうして、みんなに広めていくか。そのためには先ず、合楽に、今、ご神縁を頂いておる人達が、本気でここんところを頂いてもらわなければならん。そしてこれを、本当に押し広めていかなければならないという事を、繰り返し申しました。夕べ、休ましていただいても、この事ばかり。本当に、こういう素晴らしいことが、どうして人に、本当に伝わっていかんのだろう。いや、ここに、おかげを頂きたいと言うて来る人達ですら、これが徹底していかんのだろう。もう、それを思い出していたら、もう、朝方二時になりました。それから、あー、休ませていただいたら、丁度、三時一寸過ぎに目が覚めた。それがね、こういう事を頂いた。「三年、三年、また三年、後は一年待つばかり」と頂いた。「三年、三年、また三年、後は一年待つばかり」。これをね、三年をお参りするの難しい参に、年は御祈念の念に変えてみて御覧なさい。「参念、参念、また参念、後は一年待つばかり」、ね。三年、三年、三ですから、九年でしょう。あとは、まあ一年間待ったら、十年になるんだと、こういうことなんです。なら、十年という事は、どういう事になるかというと、十年という事は、百年とか、千年とか、万年に当たることなんです。いわば、ね。いわば、十年ということ。十の年、十年という事は、これはまあ、私流に理解付けますとです。ね。神様は願いの全てということなんです。だから、神様の願いを私共が受けて、神の願いを、私共が受けて、それを願うということ。和賀心時代を作る、作りたい。これが天地の親神様の願いなんだ。悲願なんだ。その悲願を、私共が受けて、それに応えていこうというのが、いよいよ、和賀心時代を作るということの、いわば、運動員にお互いがならなきゃならない。それには、私自身が、先ず、私の心が私の家庭が、黙って治められるほどしの和賀心を頂いていかなければならないんだ。そこには、まーるい丸い、円満なおかげ、いわば、氷然として解けて行くというおかげ。氷然とは、氷然として解けるという意味ですね。無理に火にあぶってから解かすとか、ね。言うのではなくて、もう、それこそ、自然に、氷が解けていくように、問題が解決していく、おかげになっていくという事なんです。私は、今日も、その事をですね。「参念、参念、また参念、後は一年待つばかり」という事を頂いて、どういうことだろうかと、ね。教祖の神様のご時代に、目の見えない人がお願いに参ってきた。三年の日を切られた。メクラさんが、毎日、三年間お日参りをした。ちょうど満願がきたから、お届けされたら、後、まあ三年と仰った。ね。だから、六年間参り続けた。そしたら、また三年と仰った。九年間参り続けた。そうしておるうちにです。もう、この目を開けて下さいという事ではなくてです。もう、お参りをしている事、その事自体が有り難うなった。三年、三年、また三年の間に、信心が分かったという意味なのです。ね。そこに、開眼のおかげを頂いたというお話があります。だから、三年、三年、また三年というのは、その時の言葉で、私共はいつも聞いておりましたがです。ね。後は一年待つばかりというのは、今日、私が頂いた、初めて。だから、そうすると、ちょっと意味が違う。ね、だから、三年、一生懸命お参りをする、信心をする、ね。参って念ずるということ。参念という事は。信心の稽古は、さしてもらうということ。ね。
私が、夕べから、もう、しきりに思い続けて、そのために眠れないくらいにあった。こういう素晴らしい、本当の事。このように道理に合うた、しかもです、自分自身が助かるだけではなくて、それには、丸い丸い、このような円満なおかげにまでなってくる。こういう信心を、みんなが、どうして分からんじゃろうかと。ほんなら、どうしたなら、分からせることが出来るだろうかと。清さんが、昨日、そういう意味のことを話しておりました。自分が、一番初めに、行商して廻る時にはです。こんなよい品物をと、幾ら説明しても、あー、けちを付けられる。そして、一日廻って、一つか二つか、ようやく売ってから、その日の生活の糧になっておったとこう言うのです。ね。どんなほんなもんでも、売って歩いておる間は、なかなか売れなかったけれども、最近では、もう、断らんならんごと、向こうから下さい、下さいと言うて来る。だから、決して、傲慢にも、横着にもならんけれども、もう、いよいよ信用を受けたら、このように楽なもんだという話をしておるのを聞かせて頂いてですね。私が、今、こういう素晴らしい信心を、どうしてみんなが分からんだろうか。そして、少しばかり求めておる、いや、求めておらんでも、このことを一生懸命お話をしておるのは、清さんが、行商をして、一日廻って、一つか二つを、ようやく売った。それのようなものだろうなと言って話したことでした。だから、もっと、もっと、ほんなら、本気で、合楽の信心を本気で頂きたいというような人達が来るころになったら、もっと楽になるだろうというような事を思いましたけれどです。それでも、やはり、私自身がおかげを受けておる事実がありますから、みんなが、こういうおかげを頂いたら、どんなに楽になる。それには、どういうあり方で、このことを、いうなら、あー、分かった上にも分かってもらうためには、どういういき方で、この事を皆さんに聞いてもらったらよかろうかと思わせていただいたら、眠られん位にあった。それに対するお答えだと思います。ちょっと、一時間ばかり、休ませていただいた間にです。頂いたのが、今の、「三年、三年、また三年、後は一年待つばかり」だということ。これはもう絶対、私が今言ってることは絶対の物なんです。天地の親神様の願いなのです。それを、私が受けた。そして私はおかげを受けておると。三年、三年、また三年という、いうなら、信心によって出来た。後は一年待つばかりという。ね。ですから、人がほんなら、買いに来るようになるまで、いうならば、時期を待たなければ仕方のないことだ。幾ら、ほんなもんだ、間違いないもんだと言うても、こちらで売り歩いておる間は、なかなか売れるもんじゃないという。清さんが、ええこと言うてくれたんだと、昨日、思うんです。これは、他の意味でそんな話をしてましたけれど。ね。だから、せめてほんなら、合楽の御神意を頂いて、おかげを頂きたいと言うて、今、合楽にお参りをしておられる方たちだけにはです。どうでも分って貰いたいのが、この信心なのです。後は一年待つばかりというのは、一年という事は、十年にも、百年にも、千年にも、万年にも言うことでしょうね。これが、世界に布教されるという事は、もうそれこそ、何万年後のことやら分からん。私が言うてる事がいくら本当のことであっても。しかも、それは、天地の道理に合うとる。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う、これは信心をです、その生粋を合楽では言っておると。同じ金光様のご信心の中にあっても、どげん考えても、道理に合わんというようなことで、人が助かっておる、ゴヒレイがたっておるというのであってはです。それは、世界に布教するとか、世界の市場に出すとかという事は出来んと。その時、一時では助かっておると。ね。道理に合わないからなんです。不思議な世界があってです、一生懸命拝みゃ、やっぱり、御祈念が成就するということ。これも事実である。ね。確かにほんなら、久富繁雄さんあたりのように、私の身体を当たっておられるうちにです、段々、こう、人の身体にでん、悪かとこ、良かとこが分かるようなものを感ずると、こう手の平に。言うなら、撫で擦りででも、いや、病気が治せるほどしの、何かがやはり、あることだけは事実だということ。けれども、これは道理には合わない。それで助かったんでは。それでいけんという事じゃないですよ。皆さんがおかげをいただきたいなら、一応、本気で、ほんなら、お供えでも、どんどんさしていただいてみるも良かろう。ほんきで、例えば、一巻しか上げない大祓いを、十巻も、二十巻も、五十巻も、一日がかりで、大祓いでも上げるといったようないき方で願うなら、御祈念が成就するです、確かに。祈念力によって。だから、それもいけんというのじゃないち言うこと。ね。けども、一番、御道の信心の根本のところ、いわゆる、道理に合う信心というのはです。今、合楽で言うておること。ほんなら、全国の御道の信者が唱えておるけれども、そこ一点に絞って、その事を、いよいよ深く広く頂いていきよらんということです。ね。だから、合楽で、今、この事を言っておることもです。ね。いわゆる、三年三年、また三年というところを、お互いが一生懸命、修行させていただいて、あとは一年待つばかり、そこに、十全という、十年という事になる。ね。十年という事は、十の年を集める。という事は、これは、あー、仏教の言葉ですかね。十全かなんかという言葉がありますよね。いわゆる、念願の全てということです。十年という事は。だから、これは、千年、万年にも、いうならば、言葉を変えれば言えれることなんです。十年という事は。神様の願いが、そのようにです。いわゆる、発展していく、神様のそういう願いが、いよいよ、広く、みんなに分かってもらえる時代が来るんだと。だから、その根本であるところ。本なら、合楽で今日、今言っておる、その、黙って、黙って丸く丸く頂いていけれるようなおかげを、合楽の信奉者の全部が、一つ頂いてほしいとこう思う。ね。それを、広げていくところ、しかも、広げていくというよりもです、ね。向こうから買いに来るような時代が、必ず来るだろう。ね。けれども、病むにやまれん思いがです。どうかして、分からせたいと思うところに、三角で行ったり、四角で行ったりする場合も有りますけれども、それは、強引であったり、ね。えー、いわゆる、もっともらしい、えー、いうならば、あー、言い方ではありますけれども、ね。そんなに、もっともらしいふうで教えたり、強引に教えたりするよりもです、ね。黙って、それが広がっていくほどしの、おかげをいただくために、いよいよ、三年、三年、また三年が必要であるということ。ね。いよいよ信心が必要であるということ。そして、自分の身に、そこを受けていくというところのおかげを頂かなければならない。「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ」と。ね。金光様のご信心ぐらい、道理に合うた信心は、またとない。どういう名教、どういう偉大な宗教と言うても、聞きよるうちに、あら、そらちょっとに可笑しいじゃないのというところが、必ず出てくる。ところが、金光様のご信心を頂いておったらです、ね。それがない。のにもかかわらず、金光様のご信心の中でも、道理に合わん、いうなら、助け方というか、助かりかたでゴヒレイを頂いておるのも、やはりあるということ。それを、今、合楽で言っておることは、もう、どこから突いても、押してもです。ね。しかも、みんなが分かろうと努めるならば、皆が合点の行くところの分からせ方が出来る。しかもそれには、まーるい、まーるいおかげがです、伴うてくるという事実をね。私共が、頂いて、一つの見本にも、手本にもなるような信心に、いわば、仕上げていかなければならないということなんですよね。どうぞ。